和仁の邸に戻った花梨は、早速ばっけ味噌を作りたいと申し出た。和仁が「味噌と砂糖を使うなんて贅沢な代物だな」と何気なく言うと、花梨は顔をこわばらせ、さっと青ざめた。

「そうなんですか?」
「女房に聞いてみないと、在庫があるか分からぬぞ」
「そっか、贅沢品なのね……。ごめんなさい、私、わがままを言っていたみたいで」

 そういえば今まで紫姫の邸でも味噌を使った料理はそれほどなかったような気がする……と落ち込んでいる。味噌も砂糖も一般庶民にはなかなか手の届かない調味料である。花梨の世界では、どちらも当然のように誰でも口にすることができるものなのだろうか。
 あまり気にされても困るし、花梨の話すばっけ味噌というのを食べてみたいのは本心なので、和仁は花梨を連れて邸の厨に赴いた。普段和仁が顔を出すことは滅多にないので、昼飯を作るために調理場にいた女房が慌てた様子で出迎えた。

「どうされました、和仁様。このようなところに」
「味噌と砂糖はあるだろうか」

 問いに、あります、と幸いにも答えてくれたので、花梨が料理をしたいらしいと端的に説明する。女房は困惑していたが、作り方を教えてくれたら自分が調理すると申し出た。

「幸い、まだ釜戸の中に残り火があると思います。神子様にお手を煩わせるわけにはまいりません」
「ちょっと自分でやってみたいんです。たぶん、ふきのとうを刻んで、炒めて味付けすればできると思うんですが」
「ふきのとうは苦みを抑えるために、先に下茹でするといいんですよ」

 へえ、そうなんだと女房の忠告に感心したように頷いている。花梨のしたいようにさせてやって欲しいと和仁が頼むと、女房はあいわかったと頷いた。

「神子様と料理をするなんて、恐縮ですわ」
「神子。私は少し仕事があるので、自分の室にこもる」
「あ、はい。お台所を使わせてくれて、ありがとうございます」

 ぺこりと頭を下げ、土間に降りる花梨の背中を微笑ましく見送って、和仁は執務をするために廊下を戻っていった。







 もし。
 普通の人々のように、花梨を愛せたらどうなっていたのだろうか。
 もし、罪を犯していなければ、今よりはまだ積極的に花梨に接することができたのだろうか。
 しかし、自分の罪はそれだけではない。血筋に対する自尊心から権威を求むるがために、誰かを憎んだり蔑んだり、そればかりしてきた人生だった。無論、幼い頃は無垢な子どもで、実の母こそが東宮という地位への執着に和仁を毒していったのかもしれないが、それでも自分が選んだ道だった。暴言や暴力を当たり前だと思っていた。物心ついた頃からそんな記憶しかないのだから、人を傷つけることに対して違和感も抱かなかったのだろう。
 誰かは、和仁という男の言葉に深く傷つき、今も思い悩んでいるかもしれない。
 誰かは、和仁の挙動を軽蔑し、憎悪し、今も深く恨んでいるかもしれない。
 いくら反省しても、誰かに優しくしたいと思っていも、過去の行いが消えることはない。永久にそんな瞬間は訪れない。世界中の人が和仁を許してくれるということは、絶対にあり得ない。
 人を愛することは、自分を赦すことに似ている。それはつまり、自分を愛するということだ。花梨を愛してしまえば、自分は自分自身を少なからず赦すことになる。和仁に恨みを持つ者は、それを知ったとき、ただ純粋に嫌悪を抱くだろう。お前にはそんな資格はない、と。
 “人は、自分が思っているほど他人のことなんて気にしていませんよ”
 いつか聞いた花梨の言葉は、その通りなのかもしれないが、ではそうですかと言って簡単に考えを切り替えられるわけではない。

「……これは」

 ある程度仕事を終えて、和仁は立ったまま柱に寄りかかり、腕を組んで、昼の庭をぼんやりと眺めていた。花梨の言ったとおり、今日はかなり暖かく、庭に積もっていた雪はすっかり解け、湿った地面も乾きかけている。
 庭の低い枝木にうぐいすが来て、さえずっていた。

「罰なのだ」

 うぐいすが二羽いることに気付いて、まるで彼らは互いの恋を歌っているようだと思う。
 羨ましかった。空へ飛び立てる鳥の自由が。身に心地よい美しい歌声が。
 花梨を真っ直ぐに愛することに罪悪感を抱くこと自体が、自分がこれまでしてきた行いに対する罰だとしたら、和仁には、それを受け入れるしかほかない。花梨を純粋に愛したいと希う心に抗いながら。

「私たちは、永遠に、遠いままだな」

 言い聞かせるような己の言葉に、鼻の奥がつんとした。







 普段、昼の食事は軽く済ますか、そもそも取らないかなのだが、今日は花梨が粥とばっけ味噌を盆に載せてきたので、自然と二人で昼食をとることになった。

「口に合うか分からないですが……」

 昼食のために帰宅した時朝も厨に来て女房と共に味見し、苦みはそこそこ強いが美味であるという感想だったから、おそらく大丈夫だと思う、と不安そうに和仁に食事を差し出す。花梨は昼飯の時間帯を避けて邸を訪れるようにしていたので、二人で向かい合って食事をするのは初めてである。
 小皿に載せられたばっけ味噌とやらは、女房に説明したとおり刻まれたふきのとうが、とろっとした味噌の中にたっぷり入っている料理だった。

「言われたとおりに下茹でして、刻んだ後すぐに炒めて、味噌と砂糖で味付けしてみました。ふきのとうが九個もあって、全部使い切ったから、できたのがすごい量になっちゃって……」

 余りは壺に入れて保管してあるという。女房や時朝にも、気に入れば好きに食べてくれと伝えたとのことだ。いちいち他人の邸の者たちに気遣いしてくれることも、和仁が彼女を好ましいと思う理由の一つだった。花梨は、和仁の大事にしているものを、そのことを理解して、同じく大事にしてくれる少女だった。
 白粥に少量のせて食べるのがよいと言われたので、和仁は言われた通りにし、口に運んだ。

「ふむ。
 これは、美味だな」

 素直に感想を伝えると、花梨はパッと顔を明るくして、本当ですか!と声を上げた。

「嬉しい。私も味見したとき懐かしくて、ご飯をいくらでも食べられると思っちゃいました」

 褒めたからか、照れたように両手で口を覆い、にこにこと笑う。和仁も自然に微笑み、これなら私もいくらでも食べたいと続けて口に含んだ。

「この時期限定だな。ふきのとうを採りに行くのも悪くない」
「本当? じゃあ、また行きましょう。あ、でもお味噌とお砂糖は貴重品だから……」
「案ずるな。必要な時は好きに使えばよい」
「また来年の冬に……」

 言いかけて、花梨は口を閉ざした。突然だったので、和仁は怪訝な顔をした。

「神子?」

 呼びかけには応えず、口元には笑みを浮かべ、皿の中のばっけ味噌を見つめながら悲しげに目を伏せている。

「……」
「どうした?」

 心配になって声をかける。今の会話の中で、特に彼女を傷つけるようなことは言っていないはずだが――
 花梨は沈黙したのち、軽くかぶりを振った。

「……ううん、なんでもないです。
 また来年の冬に、ふきのとうを採りに行きたいですね」

 気を取り直したように箸を取り、いただきますと食べ始める。和仁は様子を窺っていたが、「分量は適当ですが、けっこう美味しくできました」と、先ほどの話を続ける気はない明るい口調の花梨に、掘り返すのはやめようと、和仁もまた食事を再開した。
 来年の冬。
 花梨と過ごす来年の冬は、もう訪れないのだろうかと、和仁の心に小さな冷たさが触れた。
 その問いは、声には出さなかった。